オリンピックを迎える年の『あの日』
【始】
今年もやってきた3.11。今年はさらに新型コロナウィルスという新たな疫災の真っ只中。
実はあの前日母が他界した。だから母が住んでいた熱海へ行き、葬式の段取りをして横浜で葬式を執り行うということになって、横浜へ移動していた。母の遺体は先に葬儀屋さんが運んでいった。俺は『もう少し母の部屋を整理したい』という兄を残し横浜へ向かった。葬儀を担当する牧師さんは葬儀屋さんと同時に(でも別ルートである電車で)横浜へ。アメリカ在住の姉はこちらへ向かう飛行機飛行機の中、17時頃成田着予定。つまりみんな別行動。
14時46分を向かえたのは西湘バイパスを早川から乗る時だった。Nack5のファンキーフライデーを聴いていたら小林克也さんが
「あ、地震だ❗大きい❗」
と言った。
「ホントだ❕うわっ蛇行しちゃう❗」
あれっ?
『運転中に地震きたけど、まったく気付かなかったよ。ただ電工掲示板に“地震発生!”って出ただけ』って複数の人に聞いたし、俺も経験あるぞ。
じゃこれどーゆーこと❔
この辺りは埼玉のFMラジオ局の電波が入る限界らしく雑音が多いのでFM横浜に切り替えた。
思えばパニックしていたんだろう。
「日本全域に大津波警報が発令されました❗」
って聞いても
「そんなバカな!こんな時に何ウソ流してんだよ❗」
しかおもわなかったもの。
西湘バイパスは海沿いの高架上の道。浮かんだのは阪神淡路大震災の時の根元から横倒しになった高速道路の映像。とにかく走った。
茅ヶ崎辺りで付近の小学生が海に近い小学校に避難している。防災頭巾を被っていてそれが訓練ではないことがわかる。
どちらもあとになってみればもしそこに津波がきていたらとおもうとゾッとする。
あとはとにかく「どの道が通れる(=渋滞してない)の?」だけを考えながら横浜の葬儀屋さんへ。
身の回りに起きたことが現実として受け止められなくて、この間メールだ、電話だ、とアドレス帳に入ってるところ片っ端から連絡を試みるもどことも連絡つかなかった。ところがグリーやツイッターなどは「揺れたねぇ」「地震大丈夫?」などとやりとりしてる。
あ、1件だけ電話が繋がった先があった。それが今の嫁となる人だった。
「グリーとツイッターは繋がるよ」と伝えた。
横浜まで意外なくらい時間はかからなかった。そういえば『救命病棟24時』というドラマでも地震発生直後はなんともなく、タイムラグがあって大変なことになる、ってなってたけどそのタイムスポットだったのか、葬儀屋から当時の自宅まで普段ならせいぜい30分くらいであろうところが2時間かかった。
葬儀屋とは「牧師さんもいないんじゃ場所の話もできませんから」ということで翌日(というより連絡ついてから)集合、となった。この間わずか5分。
「このために必死になって(クルマだけど)走ってきたのかよ❗」
なんて今だとおもうこと。家(当時独り暮し)に帰ってみたら最初に心配しなきゃならない母親はこの世にいねーわ、誰とも連絡つかないわ、予定はキャンセルになるわ、1週間忌引き休みだから明日仕事ねーわでやることなくなっちゃった。
そうなると「誰かの顔が見たい。」
っておもった。
近くの🍺飲み屋🏮に行って「大丈夫だった?」って声かけあってしばらくニュースを見て『不安な一夜』を独りで過ごした2011(平成23)年3月11日だった。
【了】
〔注〕当時のことを思い出しながらなるべく細かく書いたつもりですが今後思い出したことを加筆するとおもいます。